その夜、佐分利と食事を共にした。
オステリアと呼ばれる居酒屋で、飲んで食べて、何時間でも話は尽きないのだった。
日本から団体ツアーの観光客として、約1週間のイタリア旅行に来ていた彼を
僕は宿泊先のホテルまで迎えに行き、たまに仕事仲間と寄り、馴染みとなった店に連れて行った。
イタリア語で店の主人やカメリエーレ(給仕)達、顔馴染みの客と親しげに挨拶し、短い会話を交わす僕を見て、
佐分利は心底、驚いていた。
テーブルに着き、フィレンツェに住んでいるいきさつを話した。
驚いたことに佐分利は、僕が中学の卒業文集に書いた"将来の夢"の作文を覚えていた。
僕は"絶対に腕のいいコックになる!"と、書いていたのだ。
修行中の身の上、腕がいいかどうかは自信を持って言えないが
その通り、僕はコックになった。
僕は佐分利が将来の夢に何と書いたのか、まったく覚えていない。
文集どころか、佐分利だけじゃなく同級生のことは、いつの間にか
すっかりと忘れてしまっていた。
卒業して20年もの歳月が流れていた。僕らはあの頃、まだ15歳だった。
僕と佐分利は、特に仲良しというわけでもなかったんだ。
卒業後の進路についてお互いに話す機会はあったが、
それ以来一度も会ったことがなかった。
多くの同級生達が、当然のように高校に進学した。
就職した者もわずかに居たようだが、よくは知らない。
僕はといえば、中学を卒業後、調理師養成所の専門学校に入学した。
私立高校並に、いや、それ以上に学費の掛かる選択ではあったが
顔にある大きな青黒いアザのために、僕は小学生の頃から両親に
コックになりたい! そしてコックとして人生を生きてゆくことを話していた。
生まれて幼稚園に入るまで、顔のアザは無かったんだ。
一度、幼稚園の階段から転げ落ちたことがあった。
幸いにも軽い打撲程度でたいした怪我もせずに済んだのだが、
右目の上からおでこに大きなタンコブができた。
腫れがひく頃、瞼に薄い青アザが残った。打撲の後遺症と両親も思っていた。
小学生になる頃には、時間を経て益々、アザは色濃く拡がっていた。
隔世遺伝というやつだった。父親の伯父に当る人が、
同じように顔面に黒いアザがあったそうだ。
右目の周りだけにあったアザは、中学生になって更に額から
左目の方にも拡がっていき、激戦を繰り返したボクサーの面持ちにも見えた。
現在35歳の僕の顔は、一面に濃淡のアザが点在し、ブチ猫のような有様だ。
佐分利は僕の顔をじっと見つめ、僕の話を聞いていた。
日常的なことだが、初対面の人や単なる知り合いという人々は
必ずと言っていいほど、目を逸らしてしまう。
観光客としてフィレンツェにやってくる日本人の多くも街中で
僕とすれ違いざまに、化け物でも目にしたような驚いた顔をして
「あの人、日本人みたいだけど…違うかしら?」
などと僕を指差し、隣人に声をかける。
そして、僕と目が合うと露骨に視線を逸らすのだった。
子供の頃、僕が将来について両親と真剣に話をした時、母親は泣いた。
幼い頃からアザを理由に苛められることがあっても、僕を憐れんで
泣いたことなど一度もなかった母だった。
その日、夕食後に家族でテレビを見ていたんだ。
コマーシャルで、僕と同じくらいの男の子に
『大きくなったら、何になりたい?』と聞いていた。
それぞれに『プロ野球の選手』『サッカー選手』『お医者さん』『歌手』などと
明るい笑顔で答えていた。
両親に向かって、僕は言ったんだ。
「僕は絶対にコックさんになる! おいしい料理をいっぱい作るんだ!」
「サッカー大好きなのに、サッカー選手にはなりたくないのかい?」
「だって、コックさんはキッチンでお仕事するでしょ?
そしたら、誰にも顔を見せなくても済むじゃない。
なんにも悪い事なんてしてないのに『悪者!』と言われるのは嫌なんだよ。
アザがあるだけで、大人になっても『悪者!』って言われたら、
"ケームショ"ってとこに入らないといけないんだって。
僕、食べるのが大好きだし、自分でも色んな料理を作ってみたい!
僕のお店ができたら、最初にお父さんとお母さんに食べてもらうんだあ!!
絶対にコックさんになるよ! もう決めているんだもん!!」
「まだ、たったの10歳なのに…そんなことまで考えて…なんで、なんで
顔なんだろうねぇ。せめて服に隠れる体のどこかだったら…
そんなこと考える必要もなかろうに……ごめんよぉ。ごめんよぉ。
お母さんが代わってあげたい! 代わってあげたいよぉおおお」
涙を拭きながら、そう言って号泣したのだった。
父は、真剣に僕を見つめて話を聞いていたが、急に僕を抱き寄せ、
力一杯に抱きしめて言った。
「よく分かったぞ。サトシ(悟)。一人でそこまで考えていたんだな。
お父さんは、おまえの苦しみを代わってはやれないだろうが、
応援することはできるぞ! よし! サトシが立派なコックになるために
お父さんは、出来る限りの応援をしよう! 何も心配するな。
コックになる道を探してきてやる。
そうすれば、後はサトシの努力次第だ。
夢をあきらめるな! そして決して後悔するんじゃないぞ! いいな?!」
それだけ言うと、父も僕の小さな肩に顔をうずめて静かに泣いた。
両親が泣くなんて考えもしなかったので、驚いた。そして両親を
泣かせたことが哀しくて、僕も泣いてしまった。
それから間もなく父は、知り合いの道場へ僕を連れて行き、僕に
柔道を習わせた。元々、スポーツは得意で運動神経のよかった僕は
技を身につけるのも早かった。道場へ通うのが楽しい日課となった。
中学へ入学しても学校の柔道部には入らずに、道場へ通っていた。
同級生の誰も知らないことだった。
3年生に進級して、佐分利と同じクラスになった。
男子の平均身長が160cmそこそこの中で、入学当初から190cmはあろうかという
長身の彼は、それだけで学校のどこに居ても目立つ存在だった。
しかも大阪から転校してきたとかで、関西弁で話すひょうきんな彼は人気者だった。
部活動はしていなかったようだが、その背の高さを買われ
バレー部やバスケ部の試合が近付くと、顧問の先生に頼まれて
助っ人としてにわか部員になりすまし、活躍していたようだった。
僕は顔のアザが気になる年頃でもあったので、前髪を垂らして伏し目がちに
教室では、いつも一人で静かにしていた。
2学期の文化祭に向けて、ホームルームの時間にクラスで何をするか、
話し合いが始まった。
高校受験を控えた学年でもあり、みんな無関心だった。
文化祭なんて、やりたい奴がやればいいじゃないか! そんな雰囲気だった。
一向に何も決まらず、クラス単位としての参加はパス! と、何度目かの
ホームルームで決まった時に、佐分利が立ち上がって言い出したのだ。
「なあ! 誰かギター弾ける人おる? リュウジ以外に…
もし、おったらオレと一緒に何かライヴやれへん?!
みんな受験勉強に忙しいし、習い事や塾で文化祭どころやない!
オレも一応、受験するんやから他人事ちゃうねんけどな。でもな。
中学最後の文化祭やし、何かやりたい! 大人になって、あの時の
文化祭は楽しかったなー! と思い出せるような文化祭にしたい!
やっぱり自分も何か参加せな、楽しかったと思えないんとちゃうかな?
クラス全員で何もできへんのやったら…誰かが言うたみたに
やりたい奴だけやればええねん…それでええんやったら、
オレはライヴやりたいんやけど、一緒にギター弾いてくれる人、おらんかな?」
一斉にブーイングが始まった。
「ま~た、オマエかよ!」「お調子者なんだから!」「目立ちたがり!」
そんな声まで聞こえてきた。
父親が学生時代にフォークバンドでギターを弾いていた影響で、
僕は少しくらいならギターを弾ける。
手を挙げようかどうしようか? うつむいたまま、心の中で迷っていた。
「そんなん言うたかて! なあ? みんな、それでええの?
最後の文化祭やのに、何もせんと他のクラスや下級生の
頑張りをただ眺めてるだけでええの?!
1年・2年とオレらが体験した文化祭を、ちょっと思い出してくれへん?
オレらが下級生の立場やった時、先輩やった卒業生達が
あんなに楽しい文化祭の思い出を残してくれたやろ?!!
去年なんて、3年生の男子だけの『コント・赤頭巾ちゃん』あったやん?
みんな、腹抱えて笑ったやん!」
みんな思い出したのか…急に騒がしくなり、思い出し笑いの渦となった。
「ちょっと! 頼むからオレの話、最後まで聞いてくれへん?
なあ。他にも色々と楽しかったけど…今、思い出して爆笑できるんは
みーんな先輩達のおかげやん。そうちゃうの? オレらは…
オレらのクラスは、後輩にそんな思い出も残されへんのかな?
オレは、そう思たらな…オレは…オレは…やっぱり何か残したいんや!
自分のためにも。後輩のためにも。だから一緒にやろう! という人が
おるんやったら、もう時間あんまり無いから…必死で練習せなあかんけど
オレと一緒にライヴせえへん?!!」
今度は、迷わず手をあげた。そして立ち上がり佐分利に握手を求めた。
石川君も立ち上がり、僕と佐分利のところへやってきて言った。
「サブリも半田も、今日から特訓するぞ!」
そうなんだ。その日から石川龍次の家で、ギターの特訓が始まったんだ。
忘れていた思い出が、次々と甦る。
佐分利という男を目の前に、まだ真っ白だった少年の日々が
僕の胸を熱くしていた。
つづく