「さ、着いたで。なんか腹減ってしもた。エヘヘヘ」
「ごめんね。疲れたでしょ? 私はとっても楽ちんだったけど。
ありがとうございました。あー、楽しかったぁ」
「コンサート終わったら、何か食べに行こ! ごちそうするで」
コンサート会場は、開演間近もあって、もの凄い人だった。
油断すると迷子になってしまうかもしれない。
佐分利君は、私の不安を感じ取ったかのように、ごく自然に
黙って私の手を取り、席に着くまで強く握ってエスコートしてくれた。
初めて男の人に手を握られた。佐分利君の大きな手…
心臓の音が聞こえやしないか? と思うほど、ドキドキした。
本日、四回目の驚き! 今日は驚いてばかり。
ザワザワと人々が、指定の座席へと急ぐ。
コンサートなんて何年振りだろう。
物珍しそうにホールを見まわしながら、呼吸を整えていた。
まだ、この手に佐分利君の温もりが残っている。
突然、会場が真っ暗になると…ウォ~ッ!! と客席から、歓声が上がる。
一斉に皆、立ち上がる。私も佐分利君と共に立った。
ステージにライトを浴びたボブ・ディランその人と、バンドのメンバーがいた。
前に立つ人々の隙間から、なんとか見えた。
マイクを通さない声が「ワン・ツー」とカウントして最初の曲が始まると
再び、地の底から這い上がるような大歓声と拍手。
ボブ・ディランを初めて聴く私には、何という曲かは分からない。
ギターを抱えたヴォーカルのボブ・ディラン。帽子を被り素敵だ。
ギターを弾き、ハープを吹き、そして唄う。
バックには、もう一人のギター。ベース、ドラム、バイオリン、パーカッションと5人の奏者。
彼らがつむぎ出す音は素晴しい! 会場を盛り上げる賑やかで楽しい曲。
哀愁を帯びた切なくなる曲。スポットライトを浴びて、ボブ・ディラン独りでの弾き語りなど。
次々と演奏され、ボブ・ディランは独特の声で唄い続けた。
アンコールに何曲か披露して、コンサートは観客すべての人を
夢と興奮に導いて、終了した。
ボブ・ディランの音楽に、私もすっかりと魅了された。
会場を出ると、すでに雪は止んでいた。
駅へと向かう群集と一緒に、佐分利君と並んで歩く。
周りの人は、口々にたった今のコンサートについて、ボブ・ディランについて語る。
耳に入る会話を聞くとも無しに聞きながら、私と佐分利君は無言だった。
どちらも静かに感動の余韻に浸っていて、言葉が出てこないのだった。
地下鉄に乗り、佐分利君オススメのお店に行った。
メニューを決め、ビールで乾杯した。
「ボブ・ディランに!」「偶然のヒョコタンとの再会に!」
食事をしながら、コンサートの感想や好きな音楽について話し始まり
お互いの仕事を含めた近況について。学生の頃の話。同じ中学だったから
懐かしい先生やクラスメイトの話。佐分利君が転校して来た初日の思い出など
昔話に花が咲いた。
「ヒョコタンはおとなしい子やったのになぁ。
こんなに喋る女の人になったんやぁ」
「ヒョコタンは高校、何処行ったん? 大学は?」
「ヒョコタン、昔から真面目やもんなぁ。若いうちは、もっと遊ばなアカンで」
「ヒョコタン、彼氏、居て無いのん?」
佐分利君は小学校の時のニックネーム"ヒョコタン"と私を呼ぶ。
彼がネーミングしたのだから、当然かもしれない。
佐分利君の記憶に私の名前"水野悦子"は、欠落してるようだ。
「ヒョコタン、まだ帰らんでええかぁ? 家まで送ったげるから
ちょっとコーヒーでも飲めへん? なんや、まだ喋り足らんねん」
場所を変えて、落ち着いた雰囲気の喫茶店で美味しいコーヒーを
飲みながら、再び喋り続けた。
3年間、交際している彼女と、どうやら破局しそうだ…
佐分利君の現在の悩み? とも言える話を黙って聞く。
時折、アドバイスを求めてか?
「な。こんな時、ヒョコタンならどう思う?」
「ヒョコタン。オレが悪いんかなぁ? どうしたらええんやろ?」
「なんかオレ、すっかりヒョコタンに甘えてるなぁ。
あかんたれで恥ずかしいな。ごめんな。愚痴っぽい話で」
ふふふ…ううん。いいのよ、佐分利君。
聞くことしかできないけど、私でよかったらスッキリするまで喋り続けてね。
ヒョコタン…そう。私はヒョコタンだったのだ。
懐かしいな。すっかり忘れてたな。
中学を卒業して、それぞれの進路へ。友達とは皆、別れ別れになった。
私は建築設計デザイナーの道を進みたくて、遠くの専門学校へと進んだ。
片道一時間半の電車通学。私の脚では、それだけでも疲れた。
誰も私を知る人のいない学校生活。慣れるまで孤独だった。
もう、ヒョコタンと呼んでくれるクラスメイトは誰もいなかった。
でも寂しくはなかった。
自分で選んで決めた目標に、邁進した。
子供の頃のように指差して、私をからかう人はいなくなったけど
言葉には出さなくとも視線や、ヒソヒソ話で私を憐れむ人達は何処にでもいる。
この脚のせいでずっと、自ら心を閉ざしてしまったからだ。
心を閉じて身を守るように、環境が変わるたびに人と接してきたからだ。
社会人となった現在は、どうだろう?
少しは心を開き、自然体でいるように心掛けているのかな?
資格を得て、経験を積み重ねて、仕事に一つ自信が持てたら
もっともっと、私は変わるのかもしれない。
そんなふうに思っていた。
ところが、どうだろう?
今、佐分利君の前で、別人のように会話を楽しんでいる私がいる。
飾らない人懐こさを素直に出せる佐分利君。
つられるように私も、ごく自然に素直に自分を出している。
ひょっとして? ヒョコタンは魔法の言葉なのかもしれない。
小学生最後の運動会…そうだったね?
運動会に向けての学年合同練習の日だったね?
クラス対抗全員リレーの練習で、トップランナーの私が走り出すと
佐分利君は、大きな声で叫んだ。
「ヒョコターン! 頑張れ~! ガンバレ~!
胸張って最後まで走るんや~! 遅れても気にせんでええぞぉ~!
オレが抜いたるからなー! クラスみんなで抜くからなー!
みんなで一等賞とったるで~!
ヒョコターン! 頑張って走るんやぞぉ~!!」
また、アイツのせいでビリかよ…あきらめ顔だったクラスメイトも
佐分利君の声援につられて「ヒョコターン! ガンバレ~!」と応援し出したのだ。
私が2番手にバトンタッチした時、他のクラスはすでに3番手のランナーが走り出していた。
それでも次々と後続のランナーは、徐々に他クラスを抜いて
ついにゴール手前でアンカーがトップを抜き、逆転優勝したのだ!
ランナーの一人が走るごとに、クラス全員で声援を送り続けた。
ヤッター! キャ~! と大騒ぎで喜ぶクラスメイト。
「ああ。これが本番やったらなぁ…」
誰かがボソッと言い、みんなで笑った。
私一人、泣いていた。
仲良しの女の子達が、私の肩を抱き慰めるように言った。
「気にしなくていいよ。ヒョコタンなんて…ひどいよね」
私は泣きながら頭を横に振り、言わなければ! と必死になった。
「違うの。ヒョコタンはいいの。感動して…みんなが…応援して…
それで、それで…頑張って…勝って…感動したから…ぅわ~ん」
こみ上がる想いに、ついにしゃくり上げてしまったのだ。
佐分利君が近付いてきて、私の肩を軽くポンと叩いた。
「ヒョコタン。何、泣いてるねん? どや! みんなで抜いて勝てたやろ?
ヒョコタンもごっつい頑張ったなー。本番もあの調子やで!
ヒョコタンもみんなも、走ってる時の必死の顔! すごいなー。
見たか? 写真に撮ったら、後で思い切り笑えるで! な?!」
それだけ言うと、教室へと走り去ったのだ。
鮮やかに思い出し、涙が零れてきた。
「急にどないしてん? 何泣いてるねん?
失恋するかもしれないオレに、そないに同情してくれんでもええで。
ヒョコタン? 大丈夫か?」
あはは。ほっんとに…佐分利君てば、相変わらずね。グスン
「ううん。何でもないの。えへっ。それより、今日のボブ・ディランの
アンコール一曲目の歌、覚えてる? タイトル分かる?」
「モチロンや! オレもあの曲、好きやねん。もの悲しいメロディーやけど。
"one more cup of coffee"言う曲やねん」
「さすが佐分利君! どう? 遅くなりついでに私と
"one more cup of coffee"というのは? ね!」
「うん! ええよ。ついでにチョコレートケーキも頼んでええか?
今日、バレンタインやろ? チョコ貰い損ねたからなぁ。
オレ、チョコ大好きやねん!」
おわり 2006.12