僕は落ち着いて座っていられなかった。どうしよう? どうしよう?
携帯電話など、まだ無い時代だった。家に連絡したくともどうすることもできず…
いてもたってもいられなくて、車両の一番後ろまで行ってみた。なんと!
確かにさっき、桜の山駅で乗った電車は1両だけだったはずなのに、煌々と灯りの点いた車両が後続に見える。
人もまばらだが、乗っている! 僕は何も考えずに助けを求めたくて、扉を開けて次の車両へと移った。
一番近くにうつむいて座っている、女の人に聞いてみた。
「この電車は、本当に『新町駅』行きなのですか?」
女の人は、何も言わずに顔も上げずに頷いた。「ありがとうございます」
僕は次々と車両を移り、最後尾まで行ってみた。
乗客全員に先ほどと同じ質問をした。みんな、顔を見せずに黙って頷くだけだった。
こんな夜に僕みたいな子供が一人で、電車に乗っていることさえ、不思議でもないような素振りだった。
僕は念のため、最後尾の車掌室を覗いた。誰も居なかった。
後方に走り去る景色は真っ暗で、2本のレールしか見えない。空に星が瞬いているだけだ。
僕はもう一度、一番前の車両に戻ろうと思い、電車の揺れに足をとられながら進んだ。
乗客の大人達の顔を、無遠慮に屈み込んで覗いたら、それは人間ではなく…マネキンだった!
あのデパートの衣料品売り場で見るマネキン人形そっくりだった!
慌てて両手で口を押さえ、飛び出して落ちてしまいそうな目をギュッと瞑って、一気に走った。
何度も車両の継ぎ目にある扉を開け閉めし、やっとのことで元の場所に戻ってきた。
呼吸するのも忘れていたようで、椅子に座った途端にハァハァと、肩で大きく息をついた。
一体、これはどういうことなんだ! 僕はどうなってしまうのか? 早く家に帰りたい!
心の中で "お父さん・お母さん”ではなく、"パパァ・ママァ”と幼い日のように呟き、泣きそうになった。
突然、トンネルを抜け出たように周りが明るくなった。
車両の窓から上全体が、ガラス張りの温室のようになり、天井さえも空の見えるガラスに変わっている!
さっきまでの夜の様子は何処にも無い。青い空に白い雲。お堂のベンチに寝転んで見ていた空みたいだった。
何かが一斉に飛んできた。何だろう? あれは?
後ろ向きに座り直して、窓に顔をくっつけて外を見た。丸くて透明なものが一杯飛んでいる。
シャボン玉だ! どこでこんなにたくさんのシャボン玉を吹いているのだろう?
電車は走り続けているというのに、消えることなく次から次へとシャボン玉が現れた。
前方に小さなホームが見えてきた。誰も居ない。乗る者も降りる者も居ない。ノン・ストップで走り続ける電車。
そのホームを過ぎると、今度はシャボン玉とは別のものが飛び交っていた。
赤トンボだ! 赤トンボの大群が、電車の右から左へと流れるように飛んでいく。空の水族館にいるような気分だった。
また一つ、小さな駅を通過した。赤トンボに替わって何か、フワフワと揺れながら漂っている。
尻尾の生えた、たくさんのたくさんの丸いもの。タンポポの綿毛だ!
次の駅からは、紅く染まったもみじの葉や、黄色に染まったイチョウの葉が、ヒラヒラと蝶のように飛んでいた!
僕はまだ、たったの10歳になったばかりの子供だった。
この超現実的というか、非現実的な出来事についさっきまでの不安や恐怖心は何処へやらで
無人の小さな駅を通り過ぎるたびに変わってゆく、パノラマ・ショーにすっかりと魅せられていた。
紙ヒコーキ。熱気球や飛行船。日本凧。羽子板の羽。幾重にもかかる虹の帯…エトセトラ、エトセトラ。
一体、いくつ駅を超えたのだろう? 時間を忘れて、魂を吸い取られてしまうかのように夢中になって見ていた。
いつしか、何も飛ばないけど空そのものが、色んな色に変化していった。
朝焼け。薄いブルーから濃いブルーに。ピンクからすみれ色に。何度も姿を変えた。
そして空が夕陽に変わり、そのまま帳を降ろし始めたその時にまた一つ、駅を通過した。
今度は、夜の空に花火が上がった! スターマインと呼ばれる色とりどりのいくつもの円が、打ち上げられる。
こんな夜空一杯の凄い花火は、初めてだ!
そして、これが最後の駅となる合図のように、一瞬に花火は消えた。
市バスのようだ…と思った客が降りることを告げる、車内のボタンランプが一斉に光り、ポン・ポン♪と鳴った。
遠くの方から…ヒューン…ヒューン…ヒューン…ヒューン…と、繰り返し聞こえる音。
何だろう? と思ったのも束の間、流れ星が雨が降るように落ちてくる。
夜空に光の線を描きながら、もの凄いスピードでヒュンヒュン唸りながら落ちてくる。
僕は、ガラス張りの天井を突き破って落ちてきそうで、急に怖くなった。
両手で頭を覆って座席に引っ付くようにして、電車の床に小さく伏せた。
僕はまだ死にたくない! 本当にあれが電車の上に落ちたら、電車ごと爆発してしまう。
そしたら、たった一人で僕は死んでしまうかもしれない。
嫌だ! 家で心配して僕の帰りを待っている、お父さん・お母さんを悲しませるのは嫌だ!
僕は強く、死にたくない! と何度も心の中で叫んだ。
とても長い…永遠か? と思うほどに長い時間が流れたように感じた。
急にザワザワと、周りに色んな音がしていた。
誰かに肩を揺さぶられていた。
「ぼく? ぼく? 大丈夫か? ぼく! 起きなさい。終点だよ」
ハッと目を覚ました。僕は電車の座席に横たわって、熟睡していたようだった。
起き直り、電車の窓や天井を見た。普通の電車だった。でも、降りる合図のボタンがあった。
・・・・・あ・れ?
「終点の『新町駅』ですよ。乗り換えるなら、3番ホームでお待ち下さい」
マネキン人形なんかではない、ちゃんとした車掌さんが、3番ホームを指差して、そう言った。
僕はフラフラと立って、電車を降りた。そしてホームから電車を見た。たったの一両電車だった。
2,3歩、後ずさりした時、どこからか僕の名を呼ぶ声がした。
声の方に振り返ると、3番ホームでお父さんとお母さんが、僕に手を振っていた。
僕は泣き出しそうになるのを必死でこらえて、3番ホームへ渡る階段に向かって走った。
お父さんとお母さんは、僕からの連絡も無いし、外は暗くなってくるし、どうしたのだろう? 何かあったのか? と心配していたが
ふと。もしかしたら? 乗り換え駅の『新町駅』行きの電車が、桜の山駅からは二通りあって、遠回りになる
ローカル線に乗り間違えたのでは? と思い当たり、調べたらしい。
時間にしたら1時間もの差が、新町駅到着までにあるそうだ。
そして、二人してここで待っていよう! どちらにしても必ず、ここで電車を乗り換えるのだから! と迎えに来ていたのだ。
僕は、さっきの出来事を話そうか? どうしようか? と迷っていた。
信じられる話じゃないし。これ以上、余計な心配をかけたくなかった。
僕は知らない土地を歩き回って疲れてしまい、電車に揺られてすぐに眠ってしまったかもしれない。
あのパノラマ・ショーは、僕のみた夢かもしれない。現実にあんなことがあるはずなんてない!
そう思い込もうとするものの、あまりにも鮮明で、半信半疑でいた。
「初めての一人旅はどうだった? 帰りの電車を乗り間違えて、帰りが遅くなったのは仕方無いとしよう。
でも、一人で電車に乗って知らないところへ行った感想は? 行ってよかったか?」
この一人旅を快く、僕を信じて許してくれたお父さん。本当に感謝します。
そして、僕の無事を今にも泣きそうな顔で喜び、力一杯に抱きしめてくれたお母さん。本当に感謝します。
心配かけてごめんなさい。本当に本当に感謝します。
僕は…僕は…まだまだ子供で…一人旅だなんて偉そうに…でも…
お父さん。お母さん。僕は、またいつか子供のうちに一人旅をしてみたいです!
僕がそれから、子供であるうちに一人旅をしたかどうかは、またの機会に…
おわり 2007.4