私の中で、何かがガラガラと大きな音をたてて崩れ落ちた。
面識も無いはずの優子と夫が、何故一緒に?
優子はいつ、アメリカから戻ってきたのか?
どうして、連絡もくれないの?どうして、アナタタチは二人でいるの?
京都への出張を夫は知っている。もし、私を追って京都に来たのなら
何故、黙っているの?驚かそうとするために?
でも、ここに優子までいるっていうのは、どういうこと?
疑問だらけだ。?マークが渦巻いて、仕事どころではなくなった。
車中からチラリと見えただけだが、見間違うはずはない。
あれは、絶対に夫と優子だった。
偶然過ぎる神様のイタズラなのか?
私は決心した。仕事を終えて、家に戻ったら夫に問いただそうと!
信じられない話だった。
約1年前、新婚旅行から帰って、私はアメリカに住む優子の元へ
結婚式・披露宴などの数枚の写真を同封して、手紙を出した。
それを受け取った優子は、間もなく帰国したそうだ。
そして外で私が働き、家で仕事する夫の在宅中に電話をかけてきた。
何度か電話で話を交わし、夫のガードが弛んだところで会う約束を取りつけた。
私に内緒で、何度か逢瀬を重ねてるうちに先日の京都での発覚となった。
「君の幼馴染みで、姉妹のように仲良しの旧友からの誘いであったから
気安くOKしてしまった。実際にお会いすると、君とはまた違った
とても美しい魅力溢れる人で、アメリカ仕込みの積極的な優子の
アプローチに催眠術をかけられたように、誘惑に負けてしまった。
君への罪悪感が無かったわけじゃない。僕は、新鮮なタイプの
彼女の虜になってしまったんだ。京都に誘い出したのも彼女さ。
まさか君に見られていたなんて! 本当にすまない。許してくれないか?」
ショックのあまりに別居した。離婚も考えたが、そこまでの踏ん切りがつかないでいた。
優子は私の前に現れることもなく、再びアメリカへ戻って行ったと、夫から聞かされて知った。
3年ほど別居は続いたが、悪夢から目を覚まそうと仕事に精を出し
過労からダウンし、入院した。
毎日、夫が病院に来てくれて、かいがいしく看病してくれた。
心の中には、まだ、わだかまりがあったものの年老いて遠く離れて
静かに暮らす両親に甘える事は今更、できるわけもなく…
独りぼっちの私には、夫に頼るしかなかったというのが本心だった。
退院したものの、病状は芳しくなく仕事を辞めた。
都心の家を売り払い、鎌倉に古い小さな家をみつけ、二人で引っ越した。
お互いに在宅仕事を抱えていたし、夫の出した本の印税も少しは
入ってきていたので、暮らしには困る事がなかった。
子供の無いまま、二人で近くを散歩したり、気分転換に小旅行に出かけたり
他人から見れば、悠々自適に暮らす中年夫婦だったろう。
優子からも何の音沙汰も無く、常にどうしているのだろう?
まだ、アメリカで暮らしているのだろうか? と気にはしていたが
私も夫も決して口にすることはなかった。
時は流れて、夫が55歳になる年に、仕事の依頼で中国へと
夫は一人で旅立った。1週間後には帰ってくる筈だった。
帰路に乗った飛行機が、海上で墜落さえしなければ…
亡骸の無い葬式を出した。とても現実を受け入れる気持ちになれなくて
私の魂は抜け殻のままだった。
私より5歳年上の夫。お互いに年を取ったとはいえ、まだまだこれからだったのに…
出逢った頃のように若々しい感性をいつまでも持ち続け、一度の裏切りが
あったというものの、私を心の底から愛し、ずっと大切にしてくれた夫。
私を抱く時は、いつも「今夜は僕が"ショパンのノクターン"を君のピアノで弾きたい」
と照れくさそうに囁くのだった。
一滴も涙の出ないまま、失意のどん底で呆然としていた。
お焼香に次々と訪れる弔問客に、機械的に頭を下げていた。
「薫」と名を呼ぶ声に現実に引き戻され、顔を上げると…
喪服に身を包み、薄いベール付きの帽子を被った優子が、目の前に居た。
ベールに覆われた優子の顔は、相変わらず美しく、弱々しく微笑んでいた。
私は周りの人々が、振り向くほどの大きな声で「どうして!?」と叫んでいた。
憎しみに似た感情が突然あふれ出し、熱い血がたぎってくるのが分った。
蝋人形のような青白い顔で立ち尽くしていた喪主が、急に大きな声を出し
真っ赤になって暴れ出さんばかりの変わりように側に居た親類縁者が
驚いたのも無理はない。優子に掴みかかろうとする私は
押さえられ奥の控え室に連れていかれた。
「優子をここへ連れてきて! まだ居る筈よ! 探して!」
夫を突然亡くした悲しみのあまり、気がふれたと思われても
仕方が無い振る舞いだった。
優子はスッと姿を消したように、すでに居なかった。後に知ったことだが
香典袋の中に私宛の短い手紙を忍ばせていた。
『薫―
最愛の夫を亡くして、悲しみに暮れていることでしょう。
私は現在、○○××で暮らしております。そんなに遠くないでしょ?
お力になれることがあれば、いつでも連絡してください。
薫はきっと、私を恨んでいることでしょう。
でもね、薫。私はいつでも陰から貴女を見守り
誰よりも貴女を愛しているのですよ。
このことは胸に留めて、忘れないでね。
御主人様のご冥福を心より、お祈りいたします。
優子』
確か…そんなことが綴られていた。
私は、香典と共にその手紙をビリビリに引き千切った。
どこでどう調べて、のこのこと葬儀にやってきたのか?
この頃―私にとって優子は、悪魔のような存在でしかなかったのだ。
つづく